形容詞は、平安時代には「く・く・し・き・けれ(から・かり・かる・かれ)」のように活用したク活用と、「しく・しく・し・しき・しけれ(しから・しかり・しかる・しかれ)」のシク活用が存在した。この区別は、終止・連体形の合一とともに消滅し、形容詞の活用種類はひとつになった。
今日では、文法用語の上で、四段活用が五段活用(実質的には同じ)と称され、已然形が仮定形と称されるようになったものの、活用の種類および活用形は基本的に江戸時代と同様である。
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[編集] 係り結びとその崩壊
かつての日本語には、係り結びと称される文法規則があった。文中の特定の語を「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」などの係助詞で受け、かつまた、文末を連体形(「ぞ」「なむ」「や」「か」の場合)または已然形(「こそ」の場合)で結ぶものである(奈良時代には、「こそ」も連体形で結んだ)。
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係り結びをどう用いるかによって、文全体の意味に明確な違いが出た。たとえば、「山里は、冬、寂しさ増さりけり」という文において、「冬」という語を「ぞ」で受けると、「山里は冬ぞ寂しさ増さりける」(『古今集』)という形になり、「山里で寂しさが増すのは、ほかでもない冬だ」と告知する文になる。また仮に、「山里」を「ぞ」で受けると、「山里ぞ冬は寂しさ増さりける」という形になり、「冬に寂しさが増すのは、ほかでもない山里だ」と告知する文になる。
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ところが、中世には、「ぞ」「こそ」などの係助詞は次第に形式化の度合いを強め、単に上の語を強調する意味しか持たなくなった。そうなると、係助詞を使っても、文末を連体形または已然形で結ばない例も見られるようになる。また、逆に、係助詞を使わないのに、文末が連体形で結ばれる例も多くなってくる。こうして、係り結びは次第に崩壊していった。
今日の口語文には、規則的な係り結びは存在しない。ただし、「貧乏でこそあれ、彼は辛抱強い」「進む道こそ違え、考え方は同じ」のような形で化石的に残っている。
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[編集] 終止・連体形の合一
活用語のうち、四段活用以外の動詞・形容詞・形容動詞および多くの助動詞は、平安時代には、終止形と連体形とが異なる形態をとっていた。たとえば、動詞は「対面す。」(終止形)と「対面する(とき)」(連体形)のようであった。ところが、係り結びの形式化とともに、上に係助詞がないのに文末を連体形止め(「対面する。」)にする例が多くみられるようになった。たとえば、『源氏物語』には、
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すこし立ち出でつつ見わたしたまへば、高き所にて、ここかしこ、僧坊どもあらはに見おろさるる。(若紫巻)[107]
などの言い方があるが、本来ならば「見おろさる」の形で終止すべきものである。
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このような例は、中世には一般化した。その結果、動詞・形容詞および助動詞は、形態上、連体形と終止形との区別がなくなった。
形容動詞は、終止形・連体形活用語尾がともに「なる」になり、さらに語形変化を起こして「な」となった。たとえば、「辛労なり」は、終止形・連体形とも「辛労な」となった。もっとも、終止形には、むしろ「にてある」から来た「ぢや」が用いられることが普通であった。したがって、終止形は「辛労ぢや」、連体形は「辛労な」のようになった。「ぢや」は主として上方で用いられ、東国では「だ」が用いられた。今日の共通語も東国語の系統を引いており、終止形語尾は「だ」、連体形語尾は「な」となっている。このことは、用言の活用に連体形・終止形の両形を区別すべき根拠のひとつとなっている。
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文語の終止形が化石的に残っている場合もある。文語の助動詞「たり」「なり」の終止形は、今日でも並立助詞として残り、「行ったり来たり」「大なり小なり」といった形で使われている。
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[編集] 可能動詞
今日、「漢字が書ける」「酒が飲める」などと用いる、いわゆる可能動詞は、室町時代には発生していた。この時期には、「読む」から「読むる」(=読むことができる)が、「持つ」から「持つる」(=持つことができる)が作られるなど、四段活用の動詞を元にして、可能を表す下二段活用の動詞が作られ始めた。これらの動詞は、やがて一段化して、「読める」「持てる」のような語形で用いられるようになった[108]。これらの可能動詞は、江戸時代前期の上方でも用いられ、後期の江戸ではふつうに使われるようになった[109]。
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従来の日本語にも、「(刀を)抜く時」に対して「(刀が自然に)抜くる時(抜ける時)」のように、四段動詞の「抜く」と下二段動詞の「抜く」(抜ける)とが対応する例は多く存在した。この場合、後者は、「自然にそうなる」という自然生起(自発)を表した。そこから類推した結果、「文字を読む」に対して「文字が読むる(読める)」などの可能動詞ができあがったものと考えられる。
近代以降、とりわけ大正時代以降には、この語法を四段動詞のみならず一段動詞にも及ぼす、いわゆる「ら抜き言葉」が広がり始めた[110]。「見られる」を「見れる」、「食べられる」を「食べれる」、「来られる」を「来れる」、「居(い)られる」を「居(い)れる」という類である。この語法は、地方によっては早く一般化し、第二次世界大戦後には全国的に顕著になっている。
[編集] 受け身表現
受け身の表現において、人物以外が主語になる例は、近代以前には乏しい。もともと、日本語の受け身表現は、自分の意志ではどうにもならない「自然生起」の用法の一種であった[111]。したがって、物が受け身表現の主語になることはほとんどなかった。『枕草子』の「にくきもの」に
すずりに髪の入りてすられたる。(すずりに髪が入ってすられている)[112]
とある例などは、受け身表現と解することもできるが、むしろ自然の状態を観察して述べたものというべきものである。一方、「この橋は多くの人々によって造られた」「源氏物語は紫式部によって書かれた」のような言い方は、古くは存在しなかったとみられる。これらの受け身は、状態を表すものではなく、事物が人から働き掛けを受けたことを表すものである。
民子の墓の周囲には野菊が一面に植えられた。(伊藤左千夫『野菊の墓』1906年)
のような欧文風の受け身が用いられている。
[編集] 語彙史
[編集] 漢語の勢力拡大
漢語(中国語の語彙)が日本語の中に入り始めたのはかなり古く、文献以前の時代にさかのぼると考えられる。今日和語と扱われる「ウメ(梅)」「ウマ(馬)」なども、もともとは漢語からの借用語であった可能性がある[8]。日本で本格的に漢字・漢語が使用され始めた時期は、『古事記』応神天皇条の、王仁が『論語』『千字文』をもたらしたという記述に従えば、4〜5世紀の頃である。
当初、漢語は一部の識字層に用いられ、それ以外の大多数の日本人は和語(大和言葉)を使うという状況であったと推測される。しかし、中国の文物・思想の流入や仏教の普及などにつれて、漢語は徐々に一般の日本語に取り入れられていった。鎌倉時代最末期の『徒然草』では、漢語および混種語(漢語と和語の混交)は、異なり語数で全体の31%を占めるに至っている。ただし、述べ語数では13%に過ぎず、語彙の大多数は和語が占める[114]。幕末の和英辞典『和英語林集成』の見出し語でも、漢語はなお25%ほどに止まっている[115]。
漢語が再び勢力を伸張したのは幕末から明治時代にかけてである。「電信」「鉄道」「政党」「主義」「哲学」その他、西洋の文物を漢語により翻訳した(新漢語。古典中国語にない語を特に和製漢語という)。幕末の『都鄙新聞』の記事によれば、京都祇園の芸者も漢語を好み、「霖雨ニ盆池ノ金魚ガ脱走シ、火鉢ガ因循シテヰル」(長雨で池があふれて金魚がどこかへ行った、火鉢の火がなかなかつかない)などと言っていたという[116]。二葉亭四迷の『浮雲』の中では、お勢という女学生が
私の言葉には漢語が雑ざるから全然何を言ッたのだか解りませんて……
と、漢語の理解できない下女を見下す様子が描かれている。
漢語の勢力は今日まで拡大を続けている。雑誌調査では、述べ語数・異なり語数ともに和語を上回り、全体の半数近くに及ぶまでになっている[117] [118](「語種」参照)。